いすわっていた台風11号も、
ようやく日本から離れてくれました。
各地で被害がありましたが、
みなさんのところは大丈夫だったでしょうか。
台風一過のあとは猛暑が続きそうですね。
どうぞ体調に気を付けてお過ごし下さい。
今週はお盆休みになる方々も多いことと思います。
当寺院ではこの時季になりますと、
数日間かけて夏期講習会なるものが開催されます。
法話が中心となりますが、
そんなに堅苦しい形のものでもなく、
日本の歴史に触れるために見学会の時間がとってあったりもしています。
今までは、大原幽学が住んでいた場所や伊藤佐千夫の生家、
千葉市の加曾利貝塚、芝山の埴輪博物館などいろいろ。
今回は佐倉にある歴史博物館の予定です。
私の法話の時間は2時間ほど。
その中で何を話そうかと毎年のように悩みます。
今回は幕末から日清日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦の流れを説明して、何故大東亜戦争に入らざるを得なかったのかという事をお話したいと思いました。
満洲国を造った石原莞爾という有名な方がいます。
とても変わった人物で、
沢山の逸話を持っていらっしゃいます。
連隊長時代に「特命検閲」というものが行われたそうです。
軍隊の教育訓練などの状態を検閲するもので、
最も重大な行事であるといわれます。
その時2日間にわたり検閲を受けたそうですが、
演習の最終日、師団参謀が石原連隊長に状況を検閲使にも聞こえるように大声で伝えます。
「高地からの射撃が猛烈で、当連隊の前進は極めて困難であります」
すると石原連隊長は、
「よし、わかった」と答えると、全連隊将兵に対し大声で命令しました。
「連隊は全滅!連隊長も戦死!皆寝ろ!」
というなり真っ先にばったりと仰向けになり、
全連隊を休憩にうつらせたそうです。
こんなひょうきんな方だったそうです。
敗戦後東京裁判が行われた頃、
石原莞爾は膀胱がんで療養中でした。
逓信病院に入院中には、
連日各国の検事や将校が訪れて、
石原莞爾にいろいろ訊問をしたそうです。
アメリカの検事に「この戦争はどこまでさかのぼるか」と石原莞爾は聴きました。
すると「日本が大陸進行し始めたのは日清日露戦争の頃だから、そこまでさかのぼる」と答えると、
「そうか。ならばペルリを呼んでこいっ」と石原莞爾は言います。
「日本は鎖国していたのに貴国からペルリがやってきて大砲で脅して鎖国を解いたではないか。そのせいで日本は世界から自国を守るために進出を計らなければならなくなった。鎖国していたら台湾も満洲も不要であった。あの世からペルリを呼んでこいっ」
このお話を知り、
歴史をさかのぼらなければ、みんなに大東亜戦争を理解させる事はできないと思いました。
勉強不足と、2時間で足りるかしらという不安を抱えつつ、
頑張ってみます。